小学校時代を振り返ってみたら、楽しかった思い出よりも、辛い思い出の方が記憶にあり、ちょっと寂しさが。
けど、これには理由がある。
人の記憶って、感情が付箋になって登録されるらしい。それで、ポジティブな感情はその時に味わえるので、昇華してしまう。でも、ネガティブな感情は、感じたくないから、感じない、ないことにする、追いやる、そんな扱いをしてしまう。そうなると、その感情は消えずに自分の中に溜まる。だから、記憶をたどった時、あながち、ネガティブな記憶ばかりが思い出されることが多い、という仕組み。
小学校1.2年の担任がユーモアのある先生で、私は好きだった。でも、その先生のやったことを振り返ると、今なら停職処分もの⁈ なんか、モヤモヤ。だって、こんな風だった…
*私は浮浪者の子 事件
春に8km程の距離を歩く文字通りの遠足があった。大きな川沿いに海に向かって歩くのだが、途中、上は車道の大きな橋の下をくぐる。そこには汚らしく色んな物で作られた浮浪者の家があった。その時、なぜか、その先生が大きな声で「おーい、みんなー、これがサワコの家だぞ〜。」と言ったのだ。私はビックリしたし、思い切り否定したが、当然クラスの子たちは私をからかう。「信じられなーい、臭ーい」
先生が言っちゃってんだから、みんな遠慮しない。
けど、その時の気持ちや感情は思い出せない。
*給食残しは認められず、さらし者にされる事件
我が家は米好きの母の影響で、パンや牛乳は小学校に入るまで滅多に食べなかった。給食のコッペパン、食パン、おまけに高学年になったら3本も!食べれないよ〜。知恵がついてきたら、ぎゅーっと縮めて食べたりしてましたよ。
だから、小1の私は、給食の時間が苦手だった。パンが原因だから、ご飯やソフト麺の日は早いし、おかわりもできた。さらに、担任は給食は残してはいけない、と絶対政で、時間内に完食できない子は昼休みにベランダに出された。サラシ刑だ。ベランダ前の池の鯉を眺めながら、昼休みに遊んでいるクラスメイトをうらやみながら…。苦手食材があるとさらに悲惨!昼休みの後は掃除で、埃まみれの中で食べた。
そういえば、お残りは自分のクラスだけだったなあ。しかも、常連さんは3〜4人。担任が変わる2年生になるのが待ち遠しかった。
なのに、担任はまた同じ先生だった。
さすがにもう、ベランダサラシ刑はないだろうと思ってたら、今度はベランダ前に4mくらいのポールそびえる旗台で食べさせられた。これは、さらに屈辱的だったろう。でも、やっぱりその時の感情は思い出せない。
毎日運動場隅とはいえ、目立つ旗台で給食食べさせられてる惨めな子ども達を見て、そこまでやる必要はあるのか?と声を上げてくれる先生はいなかったんだね。今ならあり得ない話だ。
ただ、不思議と、この担任に対する気持ちは、やっぱり恨みとか憎悪 という感覚はない。後にわかったことだけど、あの頃の先生は学校に泊まり込みで、面白い授業やイベントを考えて実行していたらしい。ソリを自分達で作ることからやり、富士山にソリ滑りに行く雪見遠足、レトルトでなく、食材からカレー作りのあるキャンプ、年明けは運動場にたくさんの七輪を持ち込んで餅焼き大会など、楽しかった行事がたくさんあった。(これらは、後に雪見遠足はプラスチック製のソリを購入、カレーはレトルトに、学校に七輪持ち込みなんてアブナイ!と全ての行事はなくなるか、薄っぺらになってしまったそうだ)モノを大切にしろ、との指導から筆箱を6年間使い続けた子には先生が新しい筆箱を買ってやる、と約束して、私たちが4年生になる春に転校していった先生は約束通り、それよりも早くなってしまったけど、クラスもバラバラになってしまったけど、約束を守っていた子には新しい筆箱をプレゼントしてくれた。子どもながらに、そんな先生の情熱に惹かれていたのかな?その分家族には迷惑かけた、と、晩年は奥様を大切にされていた。(大人になってから、当時の環境を確かめたくて先生と訪ねた時に聴いた)
だから、黒歴史なんだけど、やっぱりなんか、かすかにあったかい・・・
3年生から5年生はあまり覚えていない。そして6年生。ここはつづきで・・・
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