ばあちゃんと私 ~自分史第2弾~

自分史チャレンジの続き。

私の中にいる大きな存在の一人に母方の祖母がいる。
静岡で、筍、みかん、お茶を作っていて、私たち孫たちもよく手伝った。子ども用の小さな籠を腰に下げての茶摘みやみかん切りは大好きだった。
そのこと自体も楽しかったし、手伝うと、大きいばあちゃん(祖母の義母)が100円くれるのも嬉しかったのかも。
川や沢で魚やカニ取り、山菜採り、夏休みや年末年始は従姉妹達と、〇〇ごっこを延々と。
幼稚園や学校に上がってからは毎週末のように通っていた。今思えば、母がママっ子だったようだ。でも、そのおかげで私の幼少期は自然と一緒に遊んだ豊かなものだった。

私が、今の自分に深く影響があると自覚しているのは、祖母の信仰心。ある時、台所にお湯を捨てたら、台所には神さんがいて、火傷してしまうから、熱いものを捨ててはいけない、と教わった。大きくなってから、ステンレスが傷むから、という理由もわかったが、幼い私にはばあちゃん風の説明で充分だった。
盆や年末年始になると、家の周りの神棚や社にお供えをするのを、よく手伝った。中でも、川の向こうの無縁仏にお供えをした時に、なぜばあちゃんがするのか?と聞いたら、ここにこの暮石があるから、と言っていた。理由なんか、いらないのだ。私はそんなばあちゃんが大好き!と思って、分厚くてカサカサで先が曲がった手をぎゅっと握った記憶がある。

私の祖父は母が結婚する以前に亡くなったため、じいちゃんはいつも写真の人だった。主人亡き後、東北からの出稼ぎの人達も雇っての農家の切り盛りを一人でやっていたばあちゃんはおっかない人で、15人いる孫たちの間ではキョウソと言われて恐れられていた。母たちがつけたあだ名で愛着をもって「教祖」と言っていたのだが、漢字の知識の乏しい私は「恐怖の素の恐素」だと思い込んでいた。これは、大人達に大ウケした😆。恐素ばあちゃんの信仰心に触れる度、私はばあちゃんが大好きになり、孫で唯一ばあちゃんにたまに反抗的な態度をとる孫だった。私が言い返しているうちにばあちゃんが根負けして笑ってしまう。

 私が3人目の子どもを妊娠する少し前に他界したばあちゃんだったが、周囲にはその子はばあちゃんからのプレゼントだと言われたものだった。

ばあちゃんの死は私にとってはショックもあったが、後に子ども達が、もういないばあちゃんに会った話をしてくれたことがきっかけで、私のスピリチュアリティの扉が開かれていった・・・。

つづく・・・


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